hard で loxse な日々から。「ノークレーム・ノーリターン」は「クレームがなければリターンなし」って意味なんじゃないの?とゆー話だけど。
「ノークレーム」とか「ノーリターン」が英語としてどうなのよってのはおいとくと、"No refunds, no warranty" とか英語でもフツーに言うと思うぞ、と。
そして "No woman no cry" はパトワ語だから。2つ目のnoは"don't"だから。「ダメ、女泣くダメ」みたいな感じ?
とりあえず第一章あたりでの主要な主張である「恋愛資本主義」。バブル期に広告代理店やらマスコミやらにあおられて、女とパフパフするためには男が贅沢品を貢がなきゃならなくなった、という観察。昔、『カノッサの屈辱』でホイチョイもそんなようなことを言っていた気がするが。それって本当に本当なのかね?
平成12年度国勢調査速報の「配偶関係」の章の図2-1「25〜39歳における男女別未婚率の推移」。これ、『萌える男』の第1章図表-1で引用されているのと同じデータだと思うのだが、これを見ると未婚率の上昇はバブル期よりも前、1970年代初頭オイルショック期から既に始まっているように見える。特に25-29歳の男子においては未婚率の上昇が一番急速だったのは、1970年代後半である。ちなみに田中康夫が『なんとなくクリスタル』で文藝賞を受賞したのが1981年(昭和56年)。経済的には1986-1991年の期間がバブル期とされることを考えると、事件はバブルよりも前に起きていることが想像される。
もう少し前からの傾向とか知りたいんだが、ぐぐって見つかった資料としてはたとえばこれ。「結婚率・初婚年齢の推移:70年まで結婚率は緩やかな上昇、70年代以降急速に低下・・恋愛結婚主流へ」ということで、やはり70年初頭前後に転機がありそうだ。その少し上の「1、結婚形態の変化」のところの記述からも、1950年代までは見合い結婚が主流で、60年代に恋愛結婚が増加し、恋愛結婚が主流になったのは70年代以降であることがうかがえる。
ここからすると、バブル期にマスメディア・巨大資本によって恋愛が商品として市場経済に取り込まれて恋愛資本主義の悪夢の世界が訪れたという、それ以前には資本の論理に毒されていない純愛があったかのような論調は、おそらく的外れであって、江戸時代以前のことを無視すると、60年代に初めて(結婚を前提とした)恋愛が一般化、ヒッピー、学生運動、ウーマン・リブなどを経た70年前になって初めて「自由恋愛」が主流になり、『アンアン』『ノンノ』がこの頃に創刊、70年代後半には『ポパイ』『メンズノンノ』が創刊され、80年代頭にはすでに『なんとなくクリスタル』。近代・現代日本において資本主義とは無縁の恋愛なんてものが主流だったことは一度もないか、あったとしても非常に短期間、おそらく四畳半フォークと共に生まれ、共に滅んだぐらいのものでしかなかったと思われる。
じゃ、バブルのことは置いておいて、戦後から70年代末までの間にいったい何が起きたのか?すぐに思いつくのは敗戦・占領・民主化による価値観の変化と、戦後復興期〜高度成長期における産業構造・社会構造の変化。国勢調査のデータに戻ると昭和25(1955)には就業者のほぼ半数を占めていた第1次産業従事者は、25年後の昭和50(1980)年にはそのほぼ1/4、十数%まで減少している(これの図2)。そして70年以降のデータしかないが、おそらくそれ以前から雇用労働者の割合も増加している(表4-1)。要するに戦後教育がどうこうとか、男女同権運動がどうこうとか以前に、子孫に受け継げるような資産を持った「家」がないので「家のための結婚」をする理由がない人々が増加した、ということだ。もちろん都市の雇用労働者にとっては守るべきムラも共同体もない。労働形態の変化だけじゃなくて、福祉・行政サービスの充実や、社会情勢・経済の安定なんてのも、そこには一役買っているだろう。そういう背景があって、初めて「自由恋愛」という概念が一般化したのだろうと想像する。
家・ムラの存続のための結婚・子育てという社会的な要請はなくなった。一方、女性全体としての労働力率が微増傾向にあるにも関わらず、出産後と思しき30代において女子の労働力率が減少し、なおかつ都市部ほど女子の労働力率は低い(これ)、つまり結婚・出産後の女子が雇用労働者であり続けることは困難で、結婚・出産にともない女子の労働による収入は著しく減少し、それまでの貯えを食いつぶしつつ夫の収入でなんとかやっていくのが典型的なパターンということになる(ここの「(9)生涯設計」)。そいや開成高校生殺人事件に象徴される、受験戦争・(子による)家庭内暴力なんて話があったのも70年代後半で、子育てのコストの高さってのもこの頃から問題になってきてたんだろうなあ、という気が。
つまり、切込隊長の言っている通り、結婚・出産によるデメリットは想定できても、実質的なメリットはほとんどないか、あったとしても男子にとっては「維持費の安い家政婦兼売春婦」、女子にとっては「永久就職」でしかない(女性の労働力参加率は出生率と負の相関、仕事と家庭の両立度の高さは出生率と正の相関があるとするこんな研究結果もある)。それでも恋愛・結婚するのは、言ってしまえば個人的な「趣味」だ。倫理的・精神的な安心感ってのも人によってはあるだろうが、まあ、それも「趣味」の範疇だ。
趣味ならワガママも言うし、贅沢も言うし、流行の影響も受けるだろう。世の中の大半の人間はなんだかんだいって陳腐な趣味しか持ってないのだから、世の中の恋愛が陳腐なのも当然。そういった恋愛・結婚の趣味化が、戦後〜70年代末にかけて進行して、80年代には完全に定着したってことなんじゃないのというのが、ここ何日かでデッチ上げてみた、「恋愛資本主義仮説」に対する対抗仮説。
要約:ムラが都市に取って代わられたように、家の存続のための結婚が得体のしれない「資本主義経済」とやらを存続させるための恋愛に取って代わられたのは、セクロスも人の営みである以上は社会構造を反映するというだけのことであって、国際巨大資本や電通やマガジンハウスの陰謀で恋愛が貶められてしまったわけではない。至高の純愛なんてのは昔から御伽噺であって、それを実際に手にするのはごく一部の幸運な人間だけ。あなたが淋しいのは都市生活者の孤独であって、非モテ・キモヲタはその一側面に過ぎない。萌える男がその孤独から逃れられるのだとしたら、それはどこまでも個人的な一方通行の妄想に過ぎない萌えキャラに対する愛情そのものによってではなく、同じ境遇の他人とのルーズな連帯感によるものなんじゃないの?ミもフタもない言い方をすれば「同病相憐れむ」ってだけのことなんだが、地縁・血縁ではなく心の波長の近しいもの同士の連帯による「共同体」の再構築だ!とか言ってみると、ちょっとカッコいいかもな。
つーわけで、続き読んで寝るか。
ファッションとか料理とか、女子の趣味に関しては「一部のヲタを除いて興味なんかあるわけない、踊らされてるだけ」みたいな論調なんですが、それはそのへんの事柄に関する女子のヲタ度の高さに対する過小評価なんでないの。男子のヲタ趣味、萌えヲタや車ヲタと比べて、奴らのヲタ趣味は物心ついた時から社会公認で大手を振って修練してきた、筋金入りのヲタなんですよ。せっせと同人活動してる萌え絵師さんの絵描き装備と同じかそれ以上の化粧道具を、世の女子の大半が装備して使いこなしているわけですよ。走り屋にあこがれてるくせにハチロクとハチゴー間違えて買っちゃういつきくんよりも、ファッション・ブランドとその製品については詳しいわけですよ。『トラ!トラ!トラ!』の「ゼロ戦」を一目みて、「なんだ、テキサンじゃん」って白けてる航空ヲタと同じレベルのヲタ。
ストーカー話。一時期なんちゃってカウンセラーとかやってて、臨床心理士とか取らされそうになった人間として言わせてもらうと、短い間に嫌になるほどストーカーの相手はしたが、「恋愛しなければならないという強迫観念」でストーカー行為に走るストーカーなんてのは全く記憶にない。あまりに女に免疫がないので、ちょっとしたキッカケで見境なく惚れちゃって、『101回目のプロポーズ』の武田鉄也みたいな状態になってるだけってのが一般的だ(言っとくけど、アレ(武田鉄也)、現実だったらフツーにヤバいからね)。
とりあえず、ここまでのところはそれぐらいかしらん。