村上春樹が、米国小説翻訳家としての自分も鍛えるという意味もあったでしょうが、まず、米国英語で自作を書き、それを翻訳家的に日本語のこなれた文章、自分がハラの底から納得できる文章に落とし込んでいったという作業は、非常に文学史的な意味を持つ営為なのではないでしょうか?
ちょうど今、GWの暇つぶしに『翻訳教室』読んでるんだが、村上本人がこの有名な話について「どうしてもタイプライターで書きたかったので、英語で書き出してみたけど、面倒くさかったのでやめたw。今は日本語もワープロで書けて幸せ」とゆーようなことを言っている。どっか別のところで村上が、レイモンド・チャンドラーか誰かが「朝起きてレミントンのタイプライターに向かって原稿を何枚か叩き込む」とか言ってるのがカッコ良くって憧れた、みたいな話を書いてた記憶もあるなあ。でも、別のところでは、チャンドラーの文体が必要だったので、英語で書いてから翻訳してみた、みたいなことを言ってた気もする。
まあ、どっちも正解で、要するに村上本人としては「チャンドラーっぽく書きたかっただけ」ってことなんだろうけど、そんなことは文学とか関係なしに、ある水準以上に外国語を操れる人間だったら、普通にあることなんじゃないのかね。英語だったらこう言うところなんだけど、日本語だとなんて言えばいいか分かんってのはよくあることだ。オイラはプレゼンとか技術文書だと、半分くらいは英語で考えてる気がする。なぜかといえば、自分が知っている優れたプレゼン、すぐれた技術文書は大抵英語だから。あーゆー感じにしよう、と思うと、どうしても最初は英語で考えることになる。英語でスラスラ書けるほど英語力ないので、それをどういう風に日本語でやるか考えたら、後は日本語。ほら、一緒じゃん。
元ネタの話に戻ると、近代翻訳文学の文体の硬さってのは、べつに当時の翻訳者がこなれた日本語を書けなかった/書かなかったからじゃなくて、当時の日本語の書き言葉ってのの範囲で精一杯努力した結果がアレだったんだと思うけどな。今の言語感覚で見て文章が硬いのが、翻訳者の技量不足みたいな言い方は、Z80のアセンブラ見て構造化されてないとか言ってるみたいなもんじゃね。
それはさておき、『翻訳教室』は結構面白い。で、読んでて思ったんだけど、単語の微妙なニュアンスとか細かく解説してある辞書みたいなの、誰か作ってくんないかな。ガイジンに英語でメール書いてても、いつもそれで悩むんだよな。ドイツ語に関しては比較的そういったニュアンスがよく分かっていることから類推するに、二、三年英語圏で暮らしてくれば自然に身につくんだろうけど。言葉で説明されれば、ああ、なるほどと思うことなので、どっかにそゆ辞書あったらいいのになと思うことしきり。コビルド英英はちょっとそれに近いところがあるけれど。
このところ毎日夢を見る。一発ギャクみたいなアホな夢もあり、シュールな夢もあり、それなりに陰鬱な夢もあり。過去の体験からすると、こういう風に夢をいっぱい見る時は大抵あまり精神状態がよろしくない時だ。実際、あんまり精神状態はよろしくない。夢とゆーのは記憶のガーベジ・コレクションなのだとゆー説があるけれども、やっぱりそうなのかねえ。こういう精神状態の時には割りと面白いこと思いつく傾向にあるので、ネタ思いついたらちゃんとメモっておくように>オレ。